2016年10月21日撮影
◆別名:
柳之丸
◆所在:
名古屋市中区二の丸
◆交通:
◆歴史:
鎌倉末期、北条氏の一門で名越流北条氏4代目当主である北条時家の嫡男である北条高家は尾張守に任命され、今川館に住む今川国氏(今川氏の祖)の娘を娶ったが、元弘の乱の際に討ち死にを遂げる。高家と今川国氏の娘の間には名越高邦と高範と言う兄弟がいたが、中先代の乱が起こると、高邦は北条時行側に付いて挙兵する物の、小夜中山合戦で今川頼国(国氏の孫)と対峙し、討ち取られてしまう。
頼国は弟の高範を引き取り、名越今川氏を起こさせた。
高範は名越北条氏の正当な後継ではあるが、母方が今川直系の血筋と言う事で、足利尊氏に認められ、例外的に今川一門としての扱いを受ける事になったと言われる。
時代が下り、尾張で斯波氏の勢力が拡大すると、これを嫌った足利将軍家は、名越氏に那古野荘を与え守護代である斯波氏などを監視する奉行とした。
奉行は守護代や豪族などの荘園の管理や内紛を調停する事などが主な役割であり、将軍家直轄の役職のため、守護代の力も及ばず、室町末期まで比較的安定した勢力を持っていたが、奉行として守護代の荘園を治める職務と、今川氏一族としての立場、足利家直轄の役割など、相反する利害が複雑に絡み、室町末期には今川氏と斯波氏の対立抗争や、織田家内紛に巻き込まれたため、那古野氏内部の分裂衰退を招いたと言われている。
戦国時代に入り、那古野氏六代目当主である高重は、柳乃丸を築いて本拠地とする。この柳之丸が那古野城の前身と言われている。
高重は勢力の拡大が著しい今川本家から今川氏豊(今川義元の弟)を養子に迎え入れ、那古野城主とするが、氏豊は織田信秀の奇策によって城を奪われて那古野の地を追放される事になる。
しかし、幕府直轄の奉行職であった那古野高重の政治的価値を見出した信秀は、高重の娘を側室に迎えて織田家中に取り込み、高重の孫である高久などは織田信長の信頼も厚かったようである。
余談にはなるが、この那古野高久は羽柴秀吉と寧々が結婚をした際の仲人をした人物でもある。
那古野城は織田信長の幼少期の居城となってはいたが、信長が本拠地を清洲城へ移すと、その後は織田信光(守山城主:信秀の弟)や林貞秀が城主として入ったが、稲生の戦いで貞秀が敗れると、廃城となったと言われている。
約50年後、徳川家康がこの那古野城跡に目をつけ、天下普請を行って名古屋城を築くまで、あたり一帯は鷹狩をするような荒地だったと言われている。
◆現在:
名古屋城の二の丸に那古野城跡の碑が残されているが、太平洋戦争の際に行われた名古屋空襲を受け、文字は剥落している。
城址碑には那古の文字までが読み取る事ができる。